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探偵は電話の約束をすませますと、すぐさま事務所を出かけました。春木氏に会うまでに、ほかにいろいろしらべておきたいことがあるからということでした。
いつか一度お目にかかってお話をうけたまわりたいものだとぞんじておりましたが、わざわざおたずねくださるなんて、こんなにうれしいことはありません。
家族といっては、このコックとふたりきりで、家が広すぎるものですから、あんなインド人なんかに部屋を貸したりして、とんだめにあいました。
春木氏は、立ちさるコックのうしろ姿を、目で追いながら、いいわけするようにいうのでした。それをきっかけに、明智探偵は、いよいよ用件にはいりました。
よくうかがいたいと思って、やってきたのですが、どうも、ふにおちないのは、ふたりのインド人が、わずかのあいだに消えうせてしまったことです。
ここへかけつける二十分ほどまえに、その子どもたちが、どの部屋ですか、ここの二階にふたりのインド人がいることを、ちゃんと、たしかめておいたのです。
それが、警官たちよりも早くあなたがお帰りになったときに、もう、家の中にいなくなっていたというのは、じつにふしぎじゃありませんか。
表門はもちろん、裏門からでも、あるいは塀を乗りこえてでも、インド人が逃げだしたとすれば、子どもたちの目をのがれることはできなかったはずです。
その点が、じつにふしぎでしかたがないのです。あいつらは、何かわれわれには想像もできない、妖術のようなものでもこころえていたのではないでしょうか。
もう一つ、みょうなことがあるのですよ。あなたがお帰りになったのは、子どもたちがインド人がいることをたしかめてから、警官がくるまでのあいだでしたね。
ほう、そうですか。わたしはちっとも気がつきませんでしたよ。ちょうどそのとき、子どもたちがわきへ行っていたのかもしれませんね。
何かに一心になると、おとなのように、ほかのことは考えませんからね。ぼくはこういうばあいには、おとなよりも子どものほうが信用がおけると思います。
ぼくはきょう、ここへおたずねするまえに、いろいろな用件をすませてきたのですが、その門番をつとめた子どもに会ってみるのも、用件の一つでした。
よく聞きただしてみますと、その子どもは、けっして持ち場をはなれなかったし、わき見さえしなかったといいはるのです。子どもは、うそをつきませんからね。
いいえ、見なかったというのです。門をはいったものも、出たものも、ひとりもなかったと断言するのです。
明智探偵も、さもおかしそうに、声をそろえて笑いましたが、その声には、何かするどいとげのようなものがふくまれていました。
宝石をぬすむだけのために、どうしてそんな手数のかかるしかけをしたんでしょうね。もっと手がるな手段がありそうなものじゃありませんか。
しかし、むだといえば、ほかにもっともっと大きなむだがあるのですよ。春木さん、そこがこの事件の奇妙な点です。また、じつにおもしろい点なのです。
インド人がまっぱだかになって、隅田川を泳いでみせたり、東京中の町々を、うろついてみせたりして、世間をさわがせたことですよ。
ちょうどそのときでした。ふたりの会話の中のあべこべということばが、そのまま形となって、部屋のいっぽうの窓の外にあらわれたではありませんか。
ガラス窓のいちばん上のすみに、ひょいと人間の顔があらわれたのです。それが、まるで空からぶらさがったように、まっさかさまなのです。
ガラス窓の外のやみの中から、髪かみの毛をダランと下にたらし、まっかにのぼせた顔で、さかさまの目で、部屋の中のようすをジロジロとながめています。
じつに、ふしぎではありませんか。いや、それよりもみょうなのは、春木氏がそのガラスの外のさかさまの顔を見ても、少しもおどろかなかったことです。
何か目くばせのようなことをしました。さかさまの顔は、それに答えるようにあいずのまばたきをして、そのまま空のほうへスーッと消えてしまいました。
でも、その窓は、ちょうど明智探偵のまうしろにあったものですから、探偵はそんな奇妙な人の顔があらわれたことなど少しも知りませんでした。
お嬢ちゃんをさらったのも、いかにも宝石につきまとうのろいのように見せかける手段で、けっして命をとろうなどという考えはなかったということです。
もしほんとうに殺すつもりだったら、あれほど苦心してさらっておきながら、最期も見とどけないで、たちさってしまうわけがないのです。
それほどまでの苦労をしなければならなかったのをみると、この犯人は、よほど世間に知れわたっているやつにちがいありません。
わたしが部屋を貸したことは、かりに信用していただけないとしても、ここの二階にいたのを子どもたちが見たということですし、
ひとりの今井君が、同時に二ヵ所にあらわれるなんて、まったく不可能なことじゃありませんか。春木さん、この点をぼくは、じつにおもしろく思うのです。
きみときみのコックとが、今井君と運転手に化けたうえ、少年探偵団の子どもたちをだますために、ふたりのインド人になって、みょうなお祈りまでして見せた。
もともと四人ではなくて、ふたりきりのお芝居だったんだからね。だが、二十面相が人殺しをしないという主義をかえないのは感心だ。
すると案のじょう、きみはわなにかかってしまった。博物館長に化けていたおれの部下を、二十面相と思いこんでしまった。
いつのまにしのびこんだのか、いっぱいにひらかれたドアの外には、おしかさなるようにして、五人の制服警官が、いかめしく立ちはだかっていました。
窓からとびおりるなんて、つまらない考えはよしたほうがいいぜ。念のためにいっておくがね、この家のまわりは、五十人の警官がとりかこんでいるんだよ。
それはまるで機械じかけの人形が、カタンとひっくりかえるような、目にもとまらぬ早わざでした。二十面相は、いったい何をしたのでしょう。
この洋館のまわりは、ほんとうに数十人の警官隊がとりまいているのです。そのかこみを切りぬけて、逃げだすことなど思いもおよびません。
明智探偵は、二十面相の姿が窓の外に消えたのを見ると、急いでそこにかけより、地上を見おろしましたが、これはふしぎ、地上にはまったく人の姿がありません。
やみ夜とはいえ、階下の部屋の窓明かりで、庭がおぼろげに見えているのですが、その庭に、今とびおりたばかりの二十面相の姿がないのです。
二十面相はまるで軽業師のように、大屋根からさがった一本の綱をつかんで、スルスルと屋上へとのぼっていくではありませんか。ほんとうに悪魔の昇天です。
探偵には見えませんでしたけれど、大屋根の上には、白い上着を着た例のコックが、足をふんばって、屋根の頂上にむすびつけた綱を、グングンと引きあげています。
下からはたぐりのぼる力、上からは引きあげる力、その両ほうの力がくわわって、二十面相はみるみる大屋根にのぼりつき、かわらの上にはいあがってしまいました。
屋根の上には飲み水や食料があるわけでもないでしょうから、いつまでもそんな場所にいることはできません。雨でも降れば、ふたりはあわれな、ぬれネズミです。
われわれはただ、この家をとりかこんで、じっと待っていてもいいのですよ。そのうちに、やつらはつかれきって、降参してしまうでしょう。
階下にかけおり、門の外に待機している警官隊に、このことをつたえました。いや、教えられるまでもなく、警官隊のほうでも、もうそれを気づいていました。
ふたりの警官が、どこかへ走りさったかと思うと、やがて、五分もたたないうちに、付近の消防署から、消防自動車が邸内にすべりこみ、
靴をぬいで靴下ばかりになった警官が、つぎからつぎへとよじのぼり、懐中電燈をふり照らしながら、屋根の上の大捕り物がはじまりました。
じつにすばらしい景色だなあ。ひとり、ふたり、三人、四人、五人、おお、登ってくる、登ってくる。おまわりさんで屋根がうずまりそうだ。
そこへ登ってきたのは、中村警部君じゃないか。ご苦労さま。しばらくだったねえ。二十面相は傍若無人にわめきちらしています。
最後だって? きみたちは、おれを袋のネズミとでも思っているのかい。もう逃げ場がないとでも思っているのかい。おれはけっしてつかまえられないんだぜ。
何かたしかに逃げだせるという確信を持っているらしくみえます。しかし、四ほう八ぽうからとりかこまれた、この屋根の上を、どうしてのがれるつもりでしょう。
「ソレッ!」というかけ声とともに、中村係長が、ふたりに向かってとびかかっていきました。
すると、ちょうどそのときでした。屋根の上がとつぜんパッと明るくなったのです。まるで真昼のような光線です。警官たちは、まぶしさに目もくらむばかりでした。
手早く探照燈を付近の電燈線にむすびつけ、屋根の上を照らしはじめたのです。警官たちは、その真昼のような光の中で、キョロキョロと賊の姿をさがしもとめました。
人々の目が、屋根の上から、だんだん空のほうにうつっていったときです。ひとりの警官が、とんきょうな声をたてて、やみの大空を指さしました。
それと知ると、屋根の上の警官たちはもちろん、地上の数十名の警官たちも、あまりの意外さに、アーッと、おどろきのさけび声をあげました。
二十面相は空にのぼっていたのです。やみの空を、ぐんぐんとのぼっていく、大きな大きな黒いゴムまりのようなものが見えました。
その軽気球の下にさがったかごの中に、小さくふたりの人の姿がみえます。黒い背広の二十面相と、白い上着のコックです。
彼らは警官たちをあざわらうかのように、じっと下界をながめています。人々はそれを見て、やっと二十面相のなぞをとくことができました。
ふつうの盗賊などには、まるで考えもおよばない、ずばぬけた芸当ではありませんか。二十面相はまんいちのばあいのために、この黒い軽気球を用意しておいたのです。
今夜、明智探偵と会う少しまえに、その軽気球にガスを満たし、屋根の頂上につなぎとめておいたのです。
ぜんたいがまっ黒にぬってあるものですから、こんなやみ夜には、通りがかりの人に発見される心配もなかったわけです。
さすがの警官たちも、まさか、軽気球とは思いもよらぬものですから、屋根ばかりを見ていて、その上のほうの空などは、ながめようともしなかったからです。
ふたりの賊は警官たちに追いつめられたとき、とっさに軽気球のかごにとびのり、つなぎとめてあった綱を切断したのでしょう。
それが暗やみの中の早わざだったものですから、とつぜんふたりの姿が消えうせたように感じられたのにちがいありません。
警官隊は、空をあおいで、口々に何かわけのわからぬさけび声をたてるばかりでした。二十面相の黒軽気球は、下界のおどろきをあとにして、
軽気球は、刻一刻、その形を小さくしながら、高く高く、無限の空へと遠ざかっていきました。かごの中のふたりの姿は、とっくに見えなくなっていました。
黒い軽気球は、どうしても見つけることができませんでした。空いちめんに雲が低くたれていましたので、軽気球は雲の中へはいってしまったのかもしれません。
埼玉県熊谷市付近の人々は、夜のうちに晴れわたった青空に、何かまっ黒なゴム風船のようなものがとんでいるのを発見して、たちまち大さわぎをはじめました。
朝の新聞が、ゆうべの東京でのできごとを大きく書きたてていたものですから、人々はすぐ黒い風船の正体をさとることができたのです。
熊谷市内はもちろん、付近の町や村へも、そういうぶきみな声がひろがっていき、人々は家をからにして、街路へ走りいで、
空には、かなり強い風が吹いているらしく、軽気球は、ひじょうな速度で、北西の方向にとんでいます。みるみるうちに村を越え、森を越え、
熊谷市の上空を通過して、群馬県のほうへととびさっていくのです。熊谷市の警察署員は、とびさる風船をながめて、地だんだをふんでくやしがりましたが、
このことが電話によって東京に伝えられますと、新聞社は、待ってましたとばかりに、それぞれ所属のヘリコプターに出動を命じました。
畑の農民もすきくわを投げだして空を見まもっています。小学校のガラス窓からは、男の子や女の子の顔が、鈴なりになっています。
四台のヘリコプターは、ひし形の位置をとって、綱をはったように、黒い軽気球をまんなかにはさみながら、どこまでもどこまでもとんでいきます。
高崎市の近くにさしかかったとき、とうとう二十面相の運のつきがきました。黒い軽気球はとつぜん浮力をうしなったように、みるみる下降をはじめたのです。
気球のどこかがやぶれて、ガスがもれているようすです。今まではりきっていた黒い気球に、少しずつしわがふえていくではありませんか。
おそろしい光景でした。一分、二分、三分、しわは刻一刻とふえていき、気球はゴムまりをおしつぶしたような形にかわってしまいました。
風が強いものですから、下降しながらも、高崎市の方角へ吹きつけられていきます。四台のヘリコプターは、それにつれて、かじを下に向けながら、
晴れわたった青空を、急降下してくる四台のヘリコプター、その先頭には、しわくちゃになったまっ黒な怪物が、もうまったく浮力をうしなって、
軽気球のかごは、横だおしになって地面に落ち、風に吹かれるやぶれ気球のために、ズルズルと五十メートルほども引きずられて、やっと止まりました。
中のふたりはかごといっしょにたおれたまま、気をうしなったのか、いつまでたっても起きあがるようすさえ見えません。
警官たちは横だおしになった軽気球のかごにかけよって、かごから半身を乗りだして気をうしなっている二十面相と、白い上着のコックとを、
警察はもとより、新聞社も、東京都民も、熊谷市から高崎市にかけての町々村々の人々も、二十面相のために、まんまと、いっぱい食わされたわけです。
ひとりの警官が、ふとそれに気づいて、二十面相の身がわりになった人形の上にかがみこみ、その胸のポケットから一通の封書をぬきとりました。
あの洋館の屋根の屋上には、十枚ほどのかわらが、箱のふたのようにひらくしかけになっていて、その下に屋根裏の秘密室がこしらえてあったのです。
空中へ逃げだすなんて、いかにも二十面相らしい、はなやかな思いつきですから、まさか、それがうそだろうとは、考えもおよばなかったのです。
このなんでもないかくれ場所が、いっぽうの黒い軽気球というずばぬけた思いつきによって、まったく人の注意をひかなくなってしまったのです。
軽気球がとびさりますと、洋館をとりかこんでいた警官隊は、ひとり残らず引きあげてしまいました。明智探偵も、ついゆだんをして、そこを立ちさったのです。
指をくわえてひっこむようないくじのない明智探偵ではありません。今や探偵と怪人とは、まったく新たな敵意をもって相対することになったのです。
これからは大っぴらに、怪盗二十面相として、例の宝石や美術品ばかりをねらう、ふしぎな魔術の泥棒をはじめようというわけです。
二十面相は、けっして約束をたがえない。明智小五郎君をはじめ、その筋では、じゅうぶん警戒されるがよろしかろう、という大胆不敵の予告が記されていた。
従来の二十面相のやり口を考えると、かならずしもいたずらとのみ言いきれないふしがあるので、わが社は、この書状をただちに警視庁当局に提出し、
塔の中はからっぽではなく、すっかり純金でうずまっているのですから、ぜんたいの目方は八十キロをこえ、材料の金だけでも時価五百万円ほど
黄金塔は、広さ六十センチ四方、高さ一メートル三十センチほどの、長い箱の形をした、りっぱな木製のわくの中に入れて、
そのかわりに、わくの四すみの太い柱のかげに、赤外線防備装置という、おそろしいしかけがかくされていたのです。
赤外線を発射する光線をとりつけて、一口にいえば、黄金塔の上下左右を、目に見えぬ赤外光線のひもでつつんでしまってあるわけです。
だれかが黄金塔に手をふれようとして、赤外線をさえぎりますと、べつの電気じかけに反応して、たちまちベルが鳴りひびくと同時に、
木のわくの上下のすみには、外部からは見えぬように、八丁の小型ピストルが、実弾をこめて、まるで小さな砲台のようにすえつけてあるのです。
高価な純金の塔そのものも、たいへん世間をおどろかせましたが、この念入りな防備装置のうわさが、いっそう世評せひょうを高めたのです。
大鳥時計店では防備装置のことをかたく秘密にしておいたのですけれど、いつとはなく輪に輪をかけたうわさとなって、世間にひろがり、
黄金の塔そのものは、さほどほしいとも思わなかったでしょうが、それよりも、うわさに高いげんじゅうな防備装置にひきつけられたのです。
人のおそれる秘密のしかけをやぶって、まんまと塔をぬすみだし、世間をアッといわせたいのにちがいありません。
その夕刊新聞の記事を読みました。翌日には、大鳥時計店の主人が、わざわざ探偵の事務所をたずねてきて、黄金塔の保護を依頼して帰りました。
前の事件で、軽気球のトリックにかかったのは、中村捜査係長はじめ、警官隊の人たちでしたが、明智にも責任がないとはいえません。
怪盗二十面相は、どんな魔術によって、黄金塔をぬすみだそうというのでしょう。名探偵は、はたしてそれをふせぐことができるでしょうか。
探偵と怪人の一騎うちの知恵くらべです。悪人は悪人の名まえにかけて、名探偵は名探偵の名まえにかけて、おたがいに、こんどこそ負けてはならぬ真剣勝負です。
日がたつにつれて、この勢いは、みじめにもくずれていきました。安心が不安となり、不安が恐怖となり、大鳥氏は、もういても立ってもいられないほど、
それというのは、二十面相が毎日毎日、ふしぎな手段によって、犯罪の予告を、くりかえしたからです。夕刊新聞に予告の記事が発表されたのは、十六日のことで、
最初は、大きな字でただ「8」と書いたハガキが配達されました。そのつぎの日は、公衆電話から電話がかかってきて、主人が電話口に出ますと、
その翌朝のこと、店の戸をあけていた店員たちが、何か大さわぎをしていますので、行ってみますと、正面のショーウィンドーのガラスの、まんなかに、
顔を洗って、店へ出てきた店員たちは、アッとおどろいてしまいました。店には大小さまざまの時計が、あるいは柱にかけ、あるいは棚に陳列してあるのですが、
懐中時計や、腕時計はべつですが、目ざまし時計も、ハト時計も、オルゴール入りの大理石の置き時計も、正面にある、二メートルほどの大振り子時計も、
だれの目にもふれない、フワフワした気体のようなものになって、一つ一つ時計を止めてまわったのでしょうか。うすきみの悪い怪盗の予告は、
声が、黄金塔の安置してある部屋の方角から、聞こえてきましたので、大鳥氏はハッとしてとびおきると、そのへんに居あわせた店員をともなって、
大鳥氏はそれを見ますと、もうびっくりしてしまって、もしや黄金塔がぬすまれたのではないかと、急いでかぎをとりだし、板戸をあけて
ここまでしのびこんでくるようでは、もういよいよゆだんがなりません。刑事や店員の見はりなどは、このお化けのような怪盗には、少しのききめもありはしない
その夜になりますと、黄金塔の部屋に夜具を運ばせて、宵よいのうちから床にはいり、すきなたばこをふかしながら、まじまじと宝物の見はり番をつとめるのでした。
電車の音も聞こえません。昼間のさわがしさというものが、まったくとだえて、都内の中心の商店街も、水の底のような静けさです。
ときどき、板戸の外の廊下に、人の足音がします。寝ずの番の店員たちが、時間をきめて、家中を巡回じゅんかいしているのです。店の大時計が三時を打ちました。
それから、十時間もたったかと思うころ、やっと四時です。そう思うと、大鳥氏は、にわかにねむけがさしてきました。
ついウトウトねむりこんでしまったのです。どのくらいねむったのか、ふと目をさますと、あたりはもう明るくなっていました。時計を見れば、もう六時半です。
少女は、てのひらの文字に青ざめている大鳥氏を、なんだかおかしそうに見つめていましたが、やがて、サッと顔をかくすと、
大鳥氏も店員も、まだ、このことを少しも気づいていないようですが、わたしたちは、この少女の行動を、ゆだんなく見はっていなければなりません。
板戸と非常ベルの二つの関所は、なんの効果もなかったのです。このぶんでは、第三の関所もうっかり信用することはできません。
二十面相は何か気体のようにフワフワした、お化けみたいなものに、変身しているとしか考えられないのですから。
大鳥氏はさまざまに考えまどいながら、黄金塔の前にすわりつづけていました。一刻も目をはなす気になれないのです。
その日のお昼すぎのことでした。大鳥時計店の支配人の門野老人が、何か大きなふろしき包みをかかえて、店員たちの目をしのぶようにして、
畳の非常ベルのしかけも、柱のかくしボタンをおして、電流を切ってしまえば、いくら部屋の中を歩いても、少しも物音はしないのです。
せっかくの防備装置も、なんのききめもありません。このうえは、わたくしの考えを実行するほかに、盗難をふせぐ手だてはありません。
支配人はいいながら、立ちあがって、板戸をひらき、外にだれもいないことをたしかめると、げんじゅうに内がわからかぎをかけるのでした。
中身は、重さをつくるために鉛にいたしました。これで、光沢こうたくといい、重さといい、ほんものと少しもちがいはいたしません。
ふたりは、できるだけ物音をたてないように注意しながら、部屋のまんなかの畳をめくり、その下の床板ゆかいたをとりはずしました。
ふたりが仕事にむちゅうになって少しも気づかないでいるすきに、またしても板戸の一枚が、音もなくスーッと細めにひらき、そこから見おぼえのある顔が、
あのかわいらしいお手伝いさんです。謎の小娘です。小娘は、しばらくふたりのようすをながめたうえ、また音もなく戸をしめて、
店員の声です。もう三十分もすれば、すっかりほんものの黄金塔をうずめることができようという、きわどいときに、このさわぎです。
主人と支配人とは、力をあわせて塔の五つの部分を床下に投げこみ、床板をもとどおりにして、畳をしき、部屋には外からかぎをかけておいて、
その火事さわぎが、やや二十分ほどもつづきましたが、そのあいだに黄金の塔の部屋には、みょうなことがおこっていました。
主人をはじめ店員たちが、みんな火事場のほうへ行っているすきをめがけて、小さな人の姿が、かぎのかかった板戸をくもなくあけて、
その晩から、ほんものの黄金塔のうずめてあるあたりの畳の上に、ふとんをしかせてねむることにしました。昼間も、その部屋から一歩も外へ出ない決心です。
盗難は二十五日の夜とはっきり言いわたされているのですから、けっして安心はできません。大鳥氏はそのあとの三日間を、塔のうずめてある部屋にがんばりつづけ
店のほうでも、店員一同、今夜こそ二十面相がやってくるのだと、いつもより早く店をしめてしまって、入り口という入り口にすっかりかぎをかけ、
この中へしのびこんで、にせ黄金塔にもまよわされず、ほんものの宝物をぬすむことができるとすれば、二十面相は、もう魔法使いどころではありません。
巡回する店員の足音が、廊下にシトシトと聞こえるばかりです。奥の間では、大鳥氏と門野支配人が、さし向かいにすわって、置き時計とにらめっこをしていました。
大鳥氏はやっと胸をなでおろして、笑い声をたてるのでした。さすがの二十面相も、このげんじゅうな見はりには、かなわなかったとみえますね。
大鳥氏と支配人とは、ゾッとして顔を見あわせました。怪盗は秘密を知っていたのです。門野老人のせっかくの苦心はなんの役にも立たなかったのです。
大鳥氏はふと気がついたように、支配人の腕をつかんで、ヒソヒソとささやきました。いかにも、そういえば、声は天井の方角からひびいてくるようです。
支配人が懐中電燈をさしだしますと、脚立の上の店員は、それを受けとって、天井の穴から首をさし入れ、屋根裏のやみの中を、アチコチと見まわしました。
大鳥時計店は、大部分がコンクリート建ての洋館で、この座敷は、あとからべつに建てました一階建ての日本間でしたから、屋根裏といっても、さほど広いわけでなく、
大鳥氏は、もう気が気でなく、三人の店員たちをたちさらせますと、門野支配人とふたりで、大急ぎで畳をあけ、床板をはずし、それから、支配人に
大鳥氏はそれを聞きますと、落胆のあまり、そこへしりもちをついたまま、口をきく元気もなく、しばらくのあいだぼんやりと、床下のやみのなかをながめていました
あたりまえの家でしたら、庭のほうの縁がわの下から、床下へはいこむという手もありますけれど、このお座敷の縁がわの下には、厚い板が打ちつけてございます
主人のいいつけを聞きますと、すぐさま店のほうへとんでいって、表口、裏口の見はりをして、あやしいやつを見つけたら、大きな声をたてて人を集め、
やや一時間ほども、店内のすみからすみまで、物置や押入れの中はもちろん、天井から縁の下まで、くまなくさがしまわりましたが、ふしぎなことに、
もとの座敷にもどった大鳥氏は、おびえた顔で、あたりをキョロキョロと見まわしながら、支配人にささやくのでした。門野支配人も同感のようです。
ひょいと見まわすと、部屋の入り口に、いつのまにか黒い背広姿の明智小五郎が立っているのです。大鳥氏は気まずそうに、にが笑いしながら言うのでした。
大鳥氏は腹だたしげに、門野支配人の考えだしたトリックの話をして、まだ畳をあげたままになっている床下を指さしながら、ほんものの黄金塔が
探偵のようすが、あまり自信ありげだものですから、大鳥氏もつい引きいれられて、その塔の一部分を受けとると、つくづくとながめはじめました。
大鳥氏の顔色がかわってきました。青ざめていたほおに血の気がさしてきたのです。うつろになっていた目が、希望にかがやきはじめたのです。
二十面相はにせものをぬすんでいった。しかし、だれが、いつのまに、ほんものとにせものとを置きかえたのでしょう。家にはこの秘密を知っているものは
床下にかくしてあったのを、もとどおり床の間につみあげ、床の間のにせものを、床下へ入れておいたのです。
火事場から帰ってこられたあなたがたは、まさか、あのあいだに、そんな入れかえがおこなわれたとは、思いもよらぬものですから、
そのまま、にせもののほうを床下にうずめ、床の間のほんものをにせものと思いこんでしまったのです。
探偵が命じますと、少女はにこにこしながら、いきなり両手で頭の毛をつかんだかと思うと、それをスッポリと引きむしってしまいました。
少年探偵団長小林芳雄君は、小娘のお手伝いさんに化けて、大鳥時計店にはいりこんでいたのです。まんまと二十面相にいっぱい食わせてしまったのです。
「二十面相はこの部屋にいるのです。われわれの目の前にいるのです」探偵の声がおもおもしくひびきました。
大鳥氏も門野支配人も、自分の目がどうかしたのではないかと、キョロキョロとあたりを見まわしました。でも、その部屋には何者の姿もないのです。
この老人のことばが終わるか終わらぬに、部屋の板戸を、外からトントンとたたく音が聞こえてきました。
大鳥氏は仰天して、あわただしく板戸をひらきました。そこにはまぎれもない門野支配人が、やつれた姿で立っていたではありませんか。
そこには、まるで鏡に写したように、まったく同じ顔のふたりの老人が、敵意に燃える目でにらみあって、立ちはだかっていたのです。
ふしぎ、ふしぎ、アッと思うまに、にせ支配人の姿が、まるで土の中へでも、もぐりこんだように、消えうせてしまいました。
部下のものがぬけ穴からしのんできて、ちょうどその穴の入り口にある塔を、なんのぞうさもなく持ちさったというわけですよ。
よくそこまで準備ができましたねえ、ありがとう、ありがとう、おかげで、私も今夜からまくらを高くして寝られるというものです。
もしや、意外の悪知恵をはたらかせて、名探偵の計略の裏をかくようなことはないでしょうか。ああ、なんとなく心がかりではありませんか。
先生、あなたのおことばは、わたくしどもにはさっぱりわけがわかりません。もっとくわしくおっしゃっていただけませんでございましょうか。
大鳥氏は、恐怖にたえぬもののように、ソッと天井を指さしながら、ささやくのでした。しかし、明智探偵は少しもさわぎません。
天井から明智の声がひびいてきたのです。しかも、当の探偵は目の前に、じっと口をつぐんですわっています。まるで魔法使いです。
おわかりになりましたか、ご主人。これが腹話術というものです。口を少しも動かさないでものをいう術です。
今のようにぼくがこうして口をふさいでものをいうと、まるでちがった方角からのように聞こえてくるのです。
大鳥氏はまだ半信半疑のまなざしで、じっと門野老人を見つめました。門野老人はまっさおになっています。
まだへこたれたようすは見えません。顔いっぱいにみょうなにが笑いをうかべて、何かいいだしました。
おそろしい夢にでもうなされているような光景ではありませんか。だれひとり、ものをいうものもなければ身動きするものもありません。
さすがの二十面相も、ほんものの門野支配人があらわれては、もう運のつきでした。いかにあらそってみても勝ちみがないとさとったのでしょう。
大きな鉄板で穴の上をふたして、土がかぶせてあったのです。今、二十面相はその鉄板をひらいて、穴の中にとびこんだのです。
大鳥氏があきれはてたようにたずねますと、明智はそくざに答えました。何から何まで知りぬいているのです。
そこにぬかりがあるものですか。そのあき家のぬけ穴の出口のところには、中村捜査係長の部下が、五人も見はりをしていますよ。
門野老人に化けた二十面相は、人々のゆだんを見すまして、パッとぬけ穴の中にとびこみますと、せまい穴の中をはうようにして、
二十面相は、まずそのあき家を借りたうえ、部下に命じて、人に知られぬように、大急ぎでぬけ穴を掘らせたのです。
内がわを石がきやレンガできずくひまはなく、ちょうど旧式な炭坑のように、丸太のわくで、土の落ちるのをふせいであるという、みすぼらしいぬけ穴です。
二十面相は、土まみれになって、そこをはっていきましたが、あき家の中の出口の下まで来て、ヒョイと外をのぞいたかと思うと、
それがみんな制服の警官らしく、制帽のひさしと拳銃のにぎりが、やみの中にもかすかにピカピカと光って見えたのです。
前に進めば五人の警官、うしろにもどれば、だれよりもこわい明智名探偵が待ちかまえているのです。進むこともしりぞくこともできません。
彼はやみの中を、ぬけ穴の中ほどまで引きかえしますと、そこの壁のくぼみになった個所から、何かふろしき包みのようなものを、とりだしました。
二十面相は、きゅうくつな思いをして、やみの中の着がえをしながら、さもうれしくてたまらないというように、低く口笛さえ吹きはじめるのでした。
裏のあき家というのは、日本建ての商家でしたが、その奥座敷でも、ちょうど大鳥時計店の奥座敷と同じように、一枚の畳があげられ、床板がはずされ、
ぬけ穴のまわりには、五名の制服警官が、あるいは床下に立ち、あるいは畳にこしかけ、あるいは座敷につっ立って、じっと見はりをつづけていました。
人間が穴の中からはいだしてくる物音です。サラサラと土のくずれる音、ハッハッという息づかい、いよいよ二十面相がやってきたのです。
五名の警官はいっせいに立ちあがって、身がまえました。二つの懐中電燈の丸い光が、左右からパッと穴の入り口を照らしました。
その中を、逃げるひとりの警官、追いかける五人の警官、キツネにでもつままれたような奇妙な追跡がはじまりました。
若い警官は、おそろしく足が早いのです。町かどに来るたび、あるいは右に、あるいは左に、めちゃくちゃに方角をかえて、追っ手をまこうとします。
中央区内の、とある小公園の塀外へいそとでした。右がわは公園のコンクリート塀べい、左がわはすぐ川に面している、さびしい場所です。
うしろをふりかえりましたが、五人のおまわりさんはまだ町かどの向こうがわを走っているとみえて、追っ手らしい姿はどこにも見えません。
今、二十面相は、その鉄のふたをひらいたのです。そして、ヒョイとそこへとびこむと、すばやく中から、ふたをもとのとおりにしめてしまいました。
おまわりさんたちは、注意ぶかく左右を見まわしながら、急ぎ足に例のマンホールの上を通りすぎて、公園の入り口のほうへ遠ざかっていきました。
マンホールの鉄ぶたは、五人の靴でふまれるたびに、ガンガンとにぶい響きをたてました。おまわりさんたちは、そうして、二十面相の頭の上を通りながら、
五人の警官がしょうぜんとして大鳥時計店にたちかえり、事のしだいを明智に報告したのは、それから二十分ほどのちのことでした。
諸君、見ていてください。二十面相がどんなに泣きつらをするか。ぼくの部下たちが、どんなみごとなはたらきをするか。
わたしたちは、もう一度、あの公園の前に立ちもどって、マンホールの中へかくれた二十面相が、どんなことをするか、それを見さだめなければなりません。
警官たちがたちさってしまいますと、そのあたりはまた、ヒッソリともとの静けさにかえりました。深夜の二時です。人通りなどあるはずはありません。
遠くのほうから、犬の鳴き声が聞こえていましたが、それもしばらくしてやんでしまうと、この世から音というものがなくなってしまったような静けさです。
黒く夜空にそびえている公園の林のこずえが、風もないのにガサガサと動いたかと思うと、夜の鳥が、あやしい声で、ゲ、ゲ、と二声鳴きました。
光といっては、ところどころの電柱にとりつけてある街燈ばかり。その街燈の一つが二十面相のかくれたマンホールの黒い鉄板の上を、うすぼんやりと照らしています。
二十面相は、あの暗やみの土の中で、いったい何をしているのでしょう。長い長い二時間がすぎて、四時となりました。東の空がうっすらとしらみはじめています。
遠い江東区の空から、徹夜作業の工場の汽笛が夜明けの近づいたことを知らせるように、もの悲しく、かすかにひびいてきました。
二十面相は、何か仕事をもくろみますと、まんいちのばあいのために、いつもその付近のマンホールの中へ、変装用の衣装をかくしておくのです。
もし警官に追われるようなことがあれば、すばやく、そのマンホールの中へ身をかくし、まったくちがった顔と服装とになって、そしらぬ顔で逃げてしまうのです。
二十面相の青年紳士は、自動車をとめさせて、料金をはらいますと、そのまま丘の上へとのぼっていき、木立ちをくぐって、洋館の玄関へはいってしまいました。
明智探偵のせっかくの苦心も水のあわとなったのでしょうか。二十面相は、かんぜんに探偵の目をくらますことができたのでしょうか。
二十面相は大きなあくびをして、フラフラと廊下をたどり、奥まった寝室へはいってしまいました。
部下の男は、二十面相を送って、寝室の外まで来ましたが、中からドアがしまっても、そこのうす暗い廊下に、長いあいだたたずんで、何か考えていました。
じっとしていますと、つかれきった二十面相は、服も着かえないでベッドにころがったものとみえ、もうかすかないびきの音が聞こえてきました。
ひげむじゃの部下は、なぜかニヤニヤと笑いながら、寝室の前を立ちさりましたが、ふたたび玄関に引きかえし、入り口のドアの外へ出て、
なんだか、その林の中にかくれている人に、あいずでもしているようなかっこうです。夜が明けたばかりの、五時少しまえです。
林の中は、まだゆうべのやみが残っているように、うす暗いのです。こんなに朝早くから、いったい何者が、そこにかくれているというのでしょう。
部下の男が手をふったかと思うと、その林の下のしげった木の葉が、ガサガサと動いて、その間から、何かほの白い丸いものが、ぼんやりとあらわれました。
建物の入口に立っている部下の男が、こんどは両手をまっすぐにのばして、左右にあげたりさげたり、鳥の羽ばたきのようなまねを、三度くりかえしました。
いよいよへんです。この男はたしかに何か秘密のあいずをしているのです。相手は何者でしょう。二十面相の敵か味方か、それさえもはっきりわかりません。
その奇妙なあいずが終わりますと、こんどはいっそうふしぎなことがおこりました。今まで林のしげみの中にぼんやり見えていた、人の顔のようなものが、
まるで大きなけだものでも走っているように、木の葉がはげしくざわめき、何かしら黒い影が、木立ちの間を向こうのほうへ、とぶようにかけおりていくのが見えました。
その黒い影はいったい何者だったのでしょう。そして、あのひげむじゃの部下はなんのあいずをしたのでしょう。
さて、お話は、それから七時間ほどたった、その日のお昼ごろのできごとにうつります。そのころになって、寝室の二十面相はやっと目をさましました。
じゅうぶんねむったものですから、ゆうべのつかれもすっかりとれて、いつもの快活な二十面相にもどっていました。
まず浴室にはいって、さっぱりと顔を洗いますと、毎朝の習慣にしたがって、廊下の奥のかくし戸をひらいて、地底の美術室へと、おりていきました。
その洋館には広い地下室があって、そこが怪盗の秘密の美術陳列室になっているのです。
二十面相は、世間の悪漢のように、お金をぬすんだり、人を殺したり、傷つけたりはしないのです。ただいろいろな美術品をぬすみあつめるのが念願なのです。
二十面相は、また、おびただしい美術品をぬすみためて、この新しいかくれがの地下室に、秘密の宝庫をこしらえていたのです。
二十畳敷きぐらいの広さで、地下室とは思われぬほど、りっぱな飾りつけをした部屋です。四ほうの壁には、日本画の掛け軸や、大小さまざまの西洋画の額などが、
部屋の天井には、りっぱな装飾電燈がさがっていますけれど、二十面相は、新しい宝物を手に入れたときででもなければ、めったに電燈をつけません。
大寺院のお堂の中のような、おもおもしいうす暗さが大すきだからです。そのうす暗い中でながめますと、古い絵や仏像がいっそう古めかしく尊く感じられるからです。
二十面相は、いま、その美術室のまんなかに立って、ぬすみためた宝物を、さも楽しそうに見まわしていました。
仏像の右手には、どれもこれも、ピストルが光っているのです。十一体の仏像が、四ほうから、怪盗めがけて、ピストルのねらいをさだめているのです。
さすがの二十面相も、あまりのことに、アッと立ちすくんだまま、キョロキョロとあたりを見まわすばかりです。
二十面相は、頭の中がこんぐらかって、何がなんだかわけがわからなくなってしまいました。フラフラと目まいがして、今にもたおれそうな気持です。
木彫りの仏像が動きだしたばかりでなく、信じきっていた部下までが、気でもちがったように、おそろしいことをいいだしたのです。
部下の男の声が、すっかりかわってしまいました。今までのしわがれ声が、たちまちよく通る美しい声にかわってしまったのです。
部下の男は、ほがらかに笑いながら、顔いちめんのつけひげを、皮をはぐようにめくりとりました。すると、その下から、にこやかな青年紳士の顔があらわれてきたのです。
けさは夜が明けたばかりで、まだうす暗かったし、この地下室も、ひどく暗いのだから、そんなにいばれたわけでもないがね。
二十面相は、一時はギョッと顔色をかえましたが、相手が化けものでもなんでもなく、明智探偵とわかりますと、さすがは怪人、やがてだんだん落ちつきをとりもどしました。
二十面相は投げたおされたまま、あっけにとられたように、キョトンとしていました。明智探偵にこれほどの腕力があろうとは、今の今まで、夢にも知らなかったからです。
二十面相は少し柔道のこころえがあるだけに、段ちがいの相手の力量がはっきりわかるのです。いくら手むかいしてみても、とてもかなうはずはないとさとりました。
二十面相は、十一体の仏像のピストルにかこまれ、明智探偵の監視をうけながら、もうあきらめはてたように美術室の中を、フラフラと歩きまわりました。
彼の推察したとおり、この洋館の外は、数十人の警官隊によって、アリのはいでるすきもなく、ヒシヒシと四ほうからとりかこまれていたのです。
「さあ、ぞんぶんに名ごりをおしむがいい」といわぬばかりに、じっともとの場所にたたずんだまま、腕組みをしています。
二十面相は、しおしおとして、部屋の中を行きつもどりつしていましたが、いつとはなしに明智探偵から遠ざかって、部屋の向こうのすみにたどりつくと、
とつぜん、ガタンというはげしい音がして、ハッと思うまに、彼の姿は、かき消すように見えなくなってしまいました。
二十面相は明智のゆだんを見すまして、すばやく穴ぐらのかくしぶたをひらき、その暗やみの中へころがりこんでしまったのです
名探偵は、またしても賊のためにまんまとはかられたのでしょうか。このどたん場まで追いつめながら、ついに二十面相をとりにがしてしまったのでしょうか。
探偵はゆっくりその穴ぐらの上まで歩いていきますと、あいたままになっている入り口をのぞきこんで、二十面相によびかけました。
この穴ぐらをぼくが知らなかったとでも思っているのかい。知らないどころか、ぼくはここをちゃんと牢屋ろうやに使っていたんだよ。
明智探偵は、警官隊が来るまでのあいだを、まるでしたしい友だちにでもたいするように、何かと話しかけるのでした。
いくらなんでも、二十面相の死の道づれになることはできないのです。名探偵には、まだまだ世の中のために、はたさなければならぬ仕事が、山のようにあるのです。
明智はパッととびあがると、まるで弾丸だんがんのように、地下室を走りぬけ、階段を三段ずつ一とびにかけあがって、洋館の玄関にかけだしました。
ドアをひらくと、出あいがしらに、十数名の制服警官が、二十面相逮捕のために、いま屋内にはいろうとするところでした。
探偵は警官たちをつきとばすようにして、林の中へ走りこみました。あっけにとられた警官たちも、「火薬」ということばに、きもをつぶして、同じように林の中へ。
建物の四ほうをとりまいていた警官隊は、そのただならぬさけび声に、みな丘のふもとへかけおりました。
どうして、そんなよゆうがあったのか、あとになって考えてみると、ふしぎなほどでした。それともマッチがしめってでもいたのでしょうか。
ちょうど人々が危険区域から遠ざかったころ、やっと爆発がおこりました。それはまるで地震のような地ひびきでした。
一階の窓から、黒い煙がムクムクと吹きだしはじめました。建物をつつみはじめるころには、まっ赤なかえんが、まるで巨大な魔物の舌のように、どの窓からも、
このようにして、二十面相はさいごをとげたのでした。火災が終わってから、焼けあとのとりしらべがおこなわれたのは申すまでもありません。
その家は、ほとんど高さと壁の色とだけしかちがわず、川に沿って長い列をつくって立ち並んでいる、屋根の低い、簡単なつくりの家々のうちの一軒である。
彼はちょうど、外国にいる幼な友達に宛てた手紙を書き終えたばかりで、遊び半分のようにゆっくりと封筒の封をし、それから机に肘ひじをついたまま、
この友達というのが、故郷での暮しに満足できず、すでに何年か前にロシアへ本格的に逃げ去っていったことを、彼は考えていた。
今、その友人はペテルスブルクで商売をやっているが、最初はとても有望のようであったその商売も、ずっと前からすでにゆきづまっている様子で、
かといってロシア人の家庭ともほとんどつき合いをしているわけでもなく、覚悟をきめた独身生活を固めているということだった。
どうやら道に迷ってしまったらしいこんな男、気の毒とは思うが助けてやることのできないこんな男に、なにを書いてやろうというのか。
ところで彼に加えられるにちがいないそうしたいっさいの苦しみは、はたしてほんとうになんかの役に立つものだろうか。
今度はほんとうに故郷も友人もいないということにでもなれば、今のまま異郷にとどまるほうが彼のためにずっとよいのではなかろうか。
こうした事情の下では、彼が故郷でほんとうに身を立てるなどと、いったい考えることができるであろうか。
その友人はすでにこれで三年以上も故郷へきたことはなく、帰らないのはロシアの政治情勢の不安定のためにどうしてもやむをえぬことだ、と説明していた。
そこでの政情不安は、十万にも及ぶロシア人が平気で世界を歩き廻っているのに、つまらない一商人のほんのしばらくの外国旅行さえも許さないということであった。
そんな調子で書いた理由はおそらく、こんなできごとの悲しみは異郷にあってはまったく想像しがたいものだ、というところにあったのであろう。
ところでゲオルクは、そのとき以来、ほかのすべてのことと同じように、自分の商売にもかなりな決意をもって立ち向っていた。
おそらく母の生前は、父が商売において自分の考えを通そうとして、ゲオルクのほんとうの独自の活動を妨げていたのであった。
ともかく商売は、この二年間のあいだに、まったく思いもかけぬくらいに発展していた。ところが例の友人は、こうした変化を全然知らなかった。
社員の数は二倍にしないでいられなかったし、売上げは五倍にもなり、今後いっそうの発展も疑いなく予想できるのだった。
ゲオルクは、自分の商売の成果について友人に書いてやる気にはなれなかった。そんなことを書けば、あとになった今では、ほんとうに奇妙なふうに見えたことであろう。
静かな日曜日に思いめぐらすと、記憶のうちにとりとめなく積み重なっていくようなできごとだけを書いてやったのだった。
故郷の町についてきっと思い描いているにちがいないような、そしてそれで満足しているにちがいないような想像を乱さないでおこうと努めた。
手紙で三度知らせてやったことであるが、つまらない話といってもやがて友人は、ゲオルクの意図にはまったく反して、この出来ごとに興味を抱き始めたのだった。
彼は婚約者としばしばこの友人のことを話し、また自分とこの友人とのあいだに交わされている特別な文通関係についても話した。
うらやましいと思い、きっと不満を感じ、しかもその不満をけっして消し去ることもできないままに、ひとりぽっちでロシアへ帰っていくことになるだろう。
そして事実、彼はこの日曜日の午前に書いた長い手紙のなかで、成立した婚約のことをつぎのような言葉で知らせてやることにした。
この人は金持の家庭の娘だ。その家庭は、君がここから去ってからずっとあとになって当地に住むことになったのだ。
だから、君はこの家のことはほとんど知っていないはずだ。ぼくの婚約者についてもっとくわしいことを知らせる機会はあるだろう。
きょうのところは、ぼくがほんとうに幸福であり、ぼくたち同士の間柄では、君がぼくのうちに今ではごくありふれた友人を持つばかりでなく、
さらに君は、ぼくの婚約者のうちに、一人の誠実な女友だちを持つことになるのだ。それは君のような独身者にとっては、けっして無意味なことではない。
彼女は君に心からよろしくといっているし、近く君に手紙を書くだろう。君がぼくたちを訪ねてくれることにいろいろ妨げがあることは、ぼくも知っている。
通りすがりに横町から会釈えしゃくした一人の知人に対しても彼は放心したような微笑でやっと答えただけだった。
やがて彼はその手紙をポケットに入れ、部屋を出ると、小さな廊下を通って父の部屋へいった。もう何カ月かのあいだ、彼はその部屋へいったことがなかった。
また、その必要も全然なかったのだった。というのは、彼は父とはいつでも店で出会っていたのだ。二人はある食堂で昼食を同時にとるのだった。
晩は、二人とも好きなような行動をするのではあったが、そのあとではなおしばらく共同の居間に坐って、めいめいが新聞を読んで過ごした。
もっとも、ゲオルクが友人たちといっしょにいることや、このごろでは婚約者が彼を訪ねることが、いちばん多いのではあった。
こんな晴れわたった午前でさえ、父の部屋がまっ暗であることに、ゲオルクは驚いた。狭い中庭の向うにそびえている壁は、それほどの影を投げていた。
父は、亡くなった母のさまざまな思い出の品に飾られている部屋の片隅の窓辺に坐り、いくらか衰えてしまった視力の弱さを補おうとして
「ペテルスブルクへだって?」と、父がきいた。「ぼくの友人へです」と、ゲオルクは言い、父の目をうかがった。
「お父さんもご存じのように、ぼくは婚約のことをはじめは黙っていようと思ったのです。心づかいからで、そのほかの理由なんかありません。
あの男の孤独な生きかたからいってほとんどありそうもないことではありますが、ほかのところからぼくの婚約のことを知るかもしれない、とぼくは考えました。
あの男がぼくの親友なら、ぼくの幸福な婚約はあの男にとっても幸福であるはずだ、とぼくは思いました。ぼくは、知らせてやることをもうためらわなくなりました。
なんにもならぬというよりもっといけないことだ。わしは今の問題に関係ないことをむし返すつもりはない。お母さんが死んでから、いろいろといやなことが起った。
おそらくそういうことが起こる時がきたのかもしれないし、わしらが考えているのよりも早くその時がきているのかもしれない。
商売でもいろいろなことがわしにはわからないままになっている。おそらくわしに隠してあるのではあるまい。
一つには年という自然の結果だし、もう一つにはお母さんの死んだことがお前よりもわしに強い打撃を与えたからだ。
でも、もし商売がお父さんの健康をそこねるというのなら、商売なんかあしたにでも永久にやめますよ。そんなことはいけません。
それなら、お父さんのために別な生きかたを始めましょう。でも、根本からちがった生きかたをするのです。お父さんはこんな暗いところに坐っていらっしゃる。
居間にいらっしゃれば、明るい光を浴びることができるじゃありませんか。きちんと食事をあがって身体に力をつけるかわりに、朝食もちょっぴりあがるだけです。
窓を閉めきっていらっしゃるけれど、そとの空気が身体にいいにきまっているじゃありませんか。お医者をつれてきて、その指図に従おうじゃありませんか。
部屋も取り変えましょう。お父さんが表の部屋へいき、ぼくがこっちへきます。お父さんには少しも模様変えなんかありません。
今は少しベッドに寝て下さい。お父さんには絶対に休息が必要です。さあ、着物を脱ぐのを手伝いましょう。いいですか、ぼくにもそんなことはできますとも。
ゲオルクはすぐ父と並んでひざまずいた。彼は、父の疲れた顔のなかで、瞳孔どうこうが大きくみひらかれ目尻から自分に向けられているのを見た。
お前にはペテルスブルクの友だちなんかいないんだ。お前はいつもふざけてばかりいたが、わしに対しても悪ふざけをひかえたことがなかった。
お父さんがあの男のいうことに耳を傾け、うなずいたり、質問したりしていることを、ぼくはとても誇りにしたのでした。よく考えてみれば、思い出すはずです。
その神父は、てのひらを切って大きな血の十字架を書き、その手を上げて、群集に呼びかけていた、というじゃありませんか。
あまりきれいではない下着をながめて、彼は父のことをかまわないでおいた自分をとがめた。たしかに、父の下着の着換えに気をくばることも、彼の義務であったろう。
父の将来をどうしようとするのか、彼は婚約者とまだはっきり話し合ったことはなかった。彼らは暗黙のうちに、父はもとの住居すまいにひとり残るものときめていた
父を自分の未来の家庭へ引き取ろうと、はっきりと急に決心した。新しい家庭に父を引き取り世話するという考えは、あまりに遅く思い浮かんだようにさえ思われる
父が胸の上の時計の鎖をもてあそんでいるのをみとめたとき、恐ろしい感じが襲ってきた。彼は父をすぐベッドへ寝かすことができなかった。
それほどしっかりと父はこの時計の鎖をつかんでいるのだった。しかし、父がベッドに寝るやいなや、万事うまく片づいたように思われた。
父は自分でふとんにくるまり、かけぶとんだけをさらに肩のずっと上までかけた。父はそれほど無愛想そうにでもなく、彼を仰ぎ見た。
「よくふとんがかかっているかね?」と、父はきいた。両脚に十分かかっているかどうか、自分では見ることができないようであった。
「ベッドに入ったら、もうよい気分でしょう?」と、ゲオルクは言い、父にかかっているふとんをなおしてやった。
父が突然よく知っているといったペテルスブルクの友人のことが、今までにないほど彼の心を打った。彼はその友人が広いロシアで痛手を受けている様子を思い浮かべた。
商品棚の残骸のあいだ、めちゃめちゃにされた品物のあいだ、垂れ下がったガス燈の腕木のあいだに、友人はまだたたずんでいる。
ゲオルクは、ほとんど呆然ぼうぜんとしたまま、あらゆるものをつかむためベッドへ走っていこうとした。だが、途中で足がとまってしまった。
あの女と水入らずで楽しむために、お前はお母さんの思い出を傷つけ、友だちを裏切り、父親を身動きできぬようにベッドへ押しこんだのだ。
自分の目が高いことを誇って、顔を輝かせていた。ゲオルクは、父からできるだけ離れて、部屋の片隅に立っていた。
ずっと前に、廻り道などして背後や上から襲われるようなことがないように、すべてを完全にはっきり見きわめようと固く決心していたのだった。
今やふたたび、ずっと前から忘れていたその決心を思い出したが、短い糸を針穴に通すようにまた忘れてしまった。
「だが、お前の友だちはお前に裏切られたわけではないぞ!」と、父は叫び、人差指を左右に動かしてそれを強調した。
父は身体を前にかがめたが、倒れはしなかった。ゲオルクは父が期待したように近づかなかったので、父はまた身体を起こした。
それを言いふらしたら、おやじを世間に顔向けできぬようにしてやることができるんだ、と彼は思った。そう思ったのも、ほんの一瞬だった。
父は自分のいうことがほんとうだと誓うように、ゲオルクがいる部屋の隅のほうにうなずいてみせた。
だからお前の友だちは何年も前からこっちへこないのだ。お前自身よりあの男のほうがなんでも百倍もよく知っているんだ。
父はその新聞をどうやってかベッドのなかにまでもち運んでいたのだった。古新聞で、ゲオルクが全然知らない社名のものだった。
ゲオルクは部屋から追い出されるように感じた。彼の背後で父がベッドの上にばたりと倒れる音が、走り去る彼の耳に聞こえつづけていた。
階段をまるで斜面をすべるようにかけ下りていったが、部屋を夜の支度のために片づけようとして階段を上がってくる女中にぶつかった。
門から飛び出し、線路を越えて河のほうへひきよせられていった。まるで飢えた人間が食物をしっかとつかむように、彼は橋の欄干らんかんをしっかとにぎっていた。
彼はひらりと身をひるがえした。彼はすぐれた体操選手で、少年時代には両親の自慢の種になっていた。
だんだん力が抜けていく手でまだ欄干をしっかりにぎって、欄干の鉄棒のあいだからバスをうかがっていた。バスは彼が落ちる物音を容易に消してくれるだろう。
「お父さん、お母さん、ぼくはあなたがたを愛していたんですよ」そして、手を離して落ちていった。その瞬間に、橋の上をほんとうに限りない車の列が通り過ぎていった。
皇帝は使者をベッドのそばにひざまずかせ、その耳にその伝言の文句をささやいた。うなずいて見せることで、皇帝はその復誦の言葉の正しさを裏書きした。
使者はすぐ途についた。力強い、疲れを知らぬ男だ。あるいは右腕、あるいは左腕と前にのばしながら、群集のあいだに自分の道を切り開いていった。
ほかのどんな人間にもできないほどたやすく前進していくことができた。だが、群集はあまりにも多かった。彼らの住居は果てしなくつづいていた。
野原がひらけているならば、使者はどんなに飛ぶように走ったことだろう。やがて君はきっと彼の拳こぶしが君の戸口をたたくすばらしい音を聞いたことだろう。
そんなことにはならないで、彼はなんと無益に骨を折っていることだろう。いつまでたっても彼は宮殿の奥深くの部屋部屋をなんとかしてかけ抜けようとするのだ。
けっしてその部屋部屋を抜けきることはないだろう。そして、もしうまくかけ抜けたとしても、何一つ得るところはないだろう。
つぎにはなんとかして階段をかけ下りようとしなければならないだろう。その階段をうまくかけ下りることができても、何一つ得るところはないだろう。
いくつもの内庭を越えていかなければならぬのだ。そして、かずかずの内庭のつぎには第二の壮大な宮殿がくる。それからふたたび、階段と内庭だ。
それからまた宮殿だ。そういうことをくり返して何千年たっても終わることはない。やっと彼の前には首都が横たわっているのだ。
だれ一人としてここをかけ抜けることはできないし、まして死者のたよりをたずさえてかけ抜けることはできない。
ある人びとは、「オドラデク」という言葉はスラヴ語から出ている、といって、それを根拠にしてこの言葉の成立を証明しようとしている。
ほかの人びとはまた、この言葉はドイツ語から出ているものであり、ただスラヴ語の影響を受けているだけだ、といっている。
この二つの解釈が不確かなことは、どちらもあたってはいないという結論を下してもきっと正しいのだ、と思わせる。
ことに、そのどちらの解釈によっても言葉の意味が見出せられないのだから、なおさらのことだ。
もしオドラデクという名前のものがほんとうにあるのでなければ、だれだってそんな語源の研究にたずさわりはしないだろう。
まず見たところ、それは平たい星形の糸巻のように見えるし、また実際に糸で巻かれているようにも見える。
それは単に糸巻であるだけではなく、星形のまんなかから小さな一本の棒が突き出していて、それからこの小さな棒と直角にもう一本の棒がついている。
このあとのほうの棒を一方の足、星形のとがりの一つをもう一方の足にして、全体はまるで両足で立つように直立することができる。
この組立て品は以前は何か用途にかなった形をしていたのだが、今ではそれがこわれてこんな形になってしまっただけなのだ、と人は思いたくなることだろう。
何かそういったことを暗示するような、ものがついていた跡とか、折れた個所とかはどこにもない。全体は意味のないように見えるのだが、それはそれなりにまとまっている。
この品についてこれ以上くわしいことをいうことはできない。なぜかというと、オドラデクはひどく動きやすくて、つかまえることができないものだからだ。
屋根裏部屋や建物の階段部や廊下や玄関などに転々としてとどまる。ときどき、何カ月ものあいだ姿が見られない。きっと別な家々へ移っていったためなのだ。
ときどき、私たちがドアから出るとき、これが下の階段の手すりにもたれかかっていると、私たちはこれに言葉をかけたくなる。
「君の名前はなんていうの?」と、私たちはたずねる。「オドラデクだよ」と、それはいう。
「どこに泊っているんだい?」「泊まるところなんかきまっていないや」と、それはいって、笑う。
その笑いは、肺なしで出せるような笑いなのだ。たとえば、落葉のかさかさいう音のように響くのだ。これで対話はたいてい終ってしまう。
それがこれからどうなることだろう、と私は自分にたずねてみるのだが、なんの回答も出てはこない。いったい、死ぬことがあるのだろうか。
死ぬものはみな、あらかじめ一種の目的、一種の活動というものをもっていたからこそ、それで身をすりへらして死んでいくのだ。
それならいつか、たとえば私の子供たちや子孫たちの前に、より糸をうしろにひきずりながら階段からころげ落ちていくようなことになるのだろうか。
それはだれにだって害は及ぼさないようだ。だが、私が死んでもそれが生き残るだろうと考えただけで、私の胸はほとんど痛むくらいだ。
一つの興行で働いているあいだは、昼も夜もブランコの上にとどまっているのだ。こうした生きかたからはまわりの生活にとってとくに困難なことは起こらなかった。
ほかの番組が行われるあいだは、彼が姿を隠すことができないので上にとどまっているということ、またこうしたときにはたいていはおとなしくしているにもかかわらず、
サーカスの幹部はこのことを許していた。なぜならば、彼は平凡でない、かけがえのない曲芸師であったからだ。彼がわがままからこんなふうな生活をやっているのではなく、
ほんとうはただそうやってたえず練習をやっているのであり、ただそうやってこそ彼の芸を完璧に維持することができるのだ、ということをよく知っていた
暖かい季節のあいだ、円天井のぐるりにあるわき窓が開け放たれ、新鮮な風といっしょに太陽の光が強くこのぼうっとかすんだような館内に入りこんでくると、
そのほかは、彼のまわりは静かだった。ただときどき、午後のがらんとした小屋に迷いこんだような使用人のだれかが、ほとんど眼のとどかないほどの高みを考えこんだように
町へ乗りこむときには競走用自動車を利用し、夜間とか早朝に人気ひとけのない通りを最大速力で飛ばしていくのだが、
ブランコ乗りは唇をかみながら、自分は今度は自分の演技のために今までの一つのブランコのかわりに向かい合った二つのブランコをもたなければならない、
賛成であろうと反対であろうと意味がないのだということを示そうとするかのように、もう二度と、どんなことがあっても一つだけのブランコでは演技をしない、という
すると、ブランコ乗りは突然泣き始めた。すっかり驚いた興行主は飛び上がり、いったいどうしたのか、とたずねた。
それでブランコ乗りの涙が彼の顔にまで流れてきた。だが、いろいろたずねてみたり、なだめすかしてみたりしてやっと、ブランコ乗りはすすり泣きしながらいった。
自分がブランコ乗りにこんなにも長いあいだただ一つのブランコの上でやらせていたことはいけなかった、と自分を責め、相手がとうとうこのまちがいに気づかせてくれた
ところが、彼自身が落ちつけなかった。重苦しい心配で彼はこっそりと本越しにブランコ乗りのほうを見た。
彼がこんな考えに悩まされ始めたとなると、どうしてそれがすっかりやむことがあるだろうか。これは彼を真底から脅おびやかすものではないだろうか。
泣き寝入りした、見たところ静かな眠りのなかで、最初のしわがブランコ乗りのすべすべした子供のような額の上に刻まれ始めているのを見るように思った。
日本にもあらわれたことが、ずっとまえの新聞にのっていましたが、そのお話のはじまるころには、それが日本の空に、しきりにあらわれるようになったのです。
大きなおさらのような丸いものが、ひじょうな早さで、高い空を飛んでいくのです。どこかの国の新がたの偵察飛行機ではないかという人もありました。
どこかの国の新がたの偵察飛行機ではないかという人もありました。宇宙のどこかの星から、地球のようすを、さぐりにきたのかもしれない、という人もありました。
空とぶ円盤のほうでは、そんなうわさにはむとんじゃくに、このごろでは、また、ほうぼうの国へと、しきりと、あらわれるようになりました。
いままで、あまり飛んでこなかった日本の空へも、たびたび、すがたをあらわすのです。きっと、なにかほかのものと、見まちがえたのだろうと、たかをくくっていました。
ある日のこと、空とぶ円盤をバカにしていた人たちを、アッといったまま、息もできないほど、びっくりさせる事件がおこりました。
まず、平野少年を、ごしょうかいしなければなりません。平野少年は、小学校の六年生で、おうちは、世田谷区のはずれの、さびしいところにありました。
平野君のおうちのそばに、北村という、二十五、六歳の、理科のことをよく知っているおじさんがすんでいて、一月ほどまえから、
北村さんのおうちは、バラックだての、三つしかへやのない、小さな家で、おじさんは、耳の遠いばあやと、ふたりきりで、そこにすんでいました。
おへやには、むずかしい理科の本が、たくさんならんでいて、けんび鏡や天体望遠鏡などもおいてありました。平野少年は、その望遠鏡で、月や火星を見るのが、だいすきでした。
あるとき、平野少年がたずねますと、北村さんは、まってましたとばかり、空とぶ円盤のせつめいをはじめました。
鳥のように空を飛ぶことを考えた人は、たくさんある。日本の江戸時代にも、じぶんのからだに、大きなはねをしばりつけて、空中飛行をやってみた人がある。
いまでは、五十人、六十人という人をのせて、じゆうじざいに空を飛び、二、三日で地球をひとまわりできるほどになってしまった。
われわれの頭では考えられなくても、もっとべつの世界の人には、わけもないことかもしれないのだからね。
もっと、ほかの星かもしれない。いずれにしても、宇宙の、どこか、べつの世界から、われわれの地球を偵察にやってくるということは、考えられないことじゃないからね。
われわれ地球の人間が発明した、無線操縦飛行機のことを考えてみたまえ。どこかの星の世界には、あれよりもっと進歩した機械があるかもしれない。
そうすれば、中に人間がはいっていなくても、じゆうに円盤を飛ばすことができるし、地球のありさまを、写真にとることもできるわけだからね。
平野少年は、そんな話をきいていますと、こわいような、たのしいような、なんともいえない、気もちになってくるのでした。
平野君は、そのとき、ゾーッと、からだが、しびれたようになって、いっしゅんかん目の前がモヤモヤとかすみ、北村のおじさんが、とほうもない怪物のように見えました。
それは、むろん気のせいでした。北村さんは、いつものような、やさしい顔でニコニコ笑っているのでした。